永遠:自分と他者に近づく手段たち

 

数年前まで「高校生フォトグラファー」として時折メディアに姿を表す機会もあった永遠(とわ)。過去の写真作品にはじまり、現在進行形で変化を重ねている20歳の彼女について、そして今年に入り本格始動した役者活動まで。表現者としての彼女に一貫する透明な芯、その内側・外側にあるものに迫った。

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ただそこにある、被写体の「もの」としての存在


―永遠ちゃんに今回声をかけたのは、前から写真作品を見てて「人を撮ってるはずなのに人を撮ってない」なんとも不思議な違和感を感じてたから。それについて聞いてみたいなと。


そうやって撮ることは自分では意識してることなんですけど、人に言われたのは初めてなので少し驚いています。私は被写体自身の人となりを知ったうえで撮ることにはあまり興味がなくて、「ただそこにある被写体」として、その人の「もの」としての存在と、撮影する時の関係性、隙間を撮っている感じです。

―「関係性」と言っても、同じ身体、脳みそ、心、言葉を持つ人間同士の関係という感じがしない。


もちろん被写体を選ぶうえでその人がどんな生き方をしてるか、そこから滲み出る個性を捉えるのは大事だと思うんです。でももともと自分は他人にそこまで興味がなくて・・・。他人に踏み込むことはない、踏み込むべきじゃない。ただその瞬間にそことここにいるだけの関係性を写してるから、皮膚も「もの」に見えるのかなと思いました。


―そうは言いつつ、撮影中はすごく純粋に目の前の相手に感動してるよね。私も撮ってもらったとき、「もうちょっとここ動かして!いいです、この光きれい!ウンウン」みたいな(笑)あのキラキラした感じは、撮られる側としても楽しかった。


ほんとですか(笑)

思春期の不確かで定まってない魅力


―踏み込むべきじゃないと距離を置く感じと、対象に近づく生々しさのバランスが絶妙だと思った。作品によく出てくる被写体、キム・スギョンちゃんには特にそれを感じる。永遠ちゃんが大阪に住んでた時の友達だよね。彼女と作品を作り始めたきっかけは?


彼女は写真を撮り始めるきっかけになった友達です。でもお互いに撮る・撮られる関係として割り切ってるところもある関係です。
最初に会ったのは15歳の頃。友達に彼女のインスタグラムを教えてもらってからずっと気になっていて、私と同じで何かを表現したいけどまだそれを掴めていないんなんだろうなって。それで直接会った時に、あの独特の風貌や考え方、初対面の人に対しての振る舞いに魅力を感じたし、やっぱり自分に似て消化しきれない何かを抱えてる感じがした。それを理解しあえる関係になれる気がして。「彼女を記録したい」と思って撮り始めました。

―10代半ばでそんな関係を築ける人と出会えたのは貴重だね。最近は撮ってるの?


最後に撮ったのは去年で、最近は撮っていません。彼女は今大学で油絵を学んでいて、出会った頃より少し落ち着いて、自分のアウトプットの仕方が分かってきたんだろうなと思います。お互いに状況が変わった。大人になったというか・・・。
私も今は人を撮ることより、風景や現象的なものを撮ることに興味があります。


―思春期を経て、お互いの見せ方や見られ方も変わってきたかな。

やっぱり思春期の人間の、まだ定まってない不確かさってすごく魅力的に感じる。スギョンをよく撮っていた時は、被写体の彼女も、撮る自分も、一番不安定な時期で何も確立してない状態だったし、撮って撮られる関係でそれを消化してたと思うんです。同年代の子たちが学校帰りにカラオケに行くのと同じ感覚で、自分たちなりの年齢相応の消化方法が写真だった。そうでもしないと人を殺すくらいのエネルギーで溢れすぎてて・・・ってすごい表現ですけど、わかります?たくさん喋って過ごすわけでもなく、発表目的に写真を撮るわけでもなく、その微妙な人間関係が当時は心地よかったなって今は思います。

自分が魅力を感じるのは、ちょっと迷ってて中途半端なものだから、今写真を撮り合わなくなったのは自然なことだし、あまり悲しいことではない。昔は会って早々「どこで撮る?」って聞いてたのが、今は会ったらお互いのこと喋って終わり、というのが普通になってきました。スギョン自身もそういう変化をきっと感じてると思います。いい友達です。不思議な関係。


―成長して変わっていく過程にスギョンちゃんがいて、きっとスギョンちゃんも然りで。いい関係だね。

人が無意識に心のままに動いた状態を撮る


―風景や現象を撮りたいと思うようになったのはなぜ?


人に指示を出しながら写真を撮ることに飽きちゃって、もっと自分のリズムで動いて撮りたいと思うようになったんです。今はあえて人を撮るとしたら、ひとりでふらっと盗撮みたいに撮るのが好きです。人はレンズを向けられると必ずカメラを意識した「撮られる顔」に変わるから、そうじゃない状態で人とカメラの間にコミュニケーションができる状況を作り出したいんです。

私はコミュニケーションがあまり得意じゃなくて、他人との会話に入らずそばで俯瞰して観察してしまうようなところがあるから、相手とスムーズにコミュニケーションを取る手段としてカメラを使ってるところがあります。


―相手と自分の間にある隔たり越しに相手をどう見るか、という視点も「とうめいなかべ」と書いた時に感じていたものです。


人を窓越しに見るように距離を隔ててしまう感覚、ありますね。中学生の時に不登校の時期があったのも関係してるかも。その時から人と関わりたいけどどう関わればいいかわからない、怖いという感情があって、だから感情をあらわにするより淡々と提示するように撮るのかもしれないです。本当は熱い気持ちもあるのかもしれないけど・・・

―距離を隔てたところから見てるけど、どこかで近づきたいって気持ちもあるのかな。社会的な影響からできた「振る舞いのフォーマット」を剥いだ、人間のハダカの部分が見たいって欲求も感じる。


それはありますね。そういえばSeen Scenesのコンセプトにある「身体の内側と外側のつながり」という言葉を読んだ時に考えてたことなんですけど、意識的に行動してる時って、頭で考えてるから心とは直結してない気がしてて。でも無意識の時は心のまま動いてる。自分はそういうのを撮りたいのかなって思います。

表現をしてる人って自分の身体と心をつなげることに興味持ってる人が多い気がします。私も昔からそうで、読んでいる小説などに「無意識」って言葉が出てくると「今きもちわるいと思っていることを解決するヒントになるのかもしれない」と思って片っ端からメモしてた時期もありました。

人との間にある壁を薄くしていきたい


そういえば最近、5日間ファスティングしてみたら身体と心がつながるのをすごく実感したんです。見た目はそんなに変わってないけど気持ちが変わりました。それまでは若さと勢いだけで生きてきたところがあって。


―まだ20歳でしょう!(笑)


でも本当にそんな感じ!今まで自分の身体の意見を聞かずに動いてたがゆえ、調子を崩すことが多かったと気づいた。身軽になったし、自分は頑張りたいことに対して努力できるんだって自信にも繋がりました。ファスティングをした結果、自分の気の持ち方が変わることで色々と引き寄せている感じがします。


―大きな脱皮過程にいる感じがするね。


今までは自分に興味を持ってくれている人か、自分が興味のある人としか関われない気がしていたけど、最近はもっと人と関わって自分の予想してなかった未来を見たいと思うようになりました。もともと大人数でいることが苦手で、そういう輪の中で発言するのが億劫だったけど、これからはとりあえず、ケガしてもいいから発言しよう、人と関わることに突っ込んでく勢いが欲しいと思って。人との間にある壁を薄くしていけたらいいなって思います。

内側と外側に向かうための表現のバランス


―ところで、永遠ちゃんは以前からモデル活動もしていたよね。


自分の外見が他人の頭の中でどう理解されるかを知りたくて始めたようなところがあります。本当は直接相手に聞けたら一番いいんだろうけど、そういうのは苦手だから遠回しにやっていたというか。正直、外見を磨くという感覚がよく分からなくて。モデルだったら仕事のためにそれが必要になるから、それで自分を鍛えるためにやってました。

 
 

―そんな感覚を持ってたのは意外。


小さい時からそう感じることが多々ありました。鏡に映る自分と心の中の自分が一致しなくて不思議だな、面白いなって感覚を持ってたんです。性がない、もしくは両方の性を持ってる感覚。きっと誰でも小さい頃はそうだと思うんですけど、単純に女っていう存在があまり自分にリンクしなかったんですよね。

今よりもっと他人のことを考えず、ただ生きてる状態。そんな自分にふんわり疑問を持ってて・・・自分とは何か、私たちはどこから来て、どこに向かってくのか・・・あとテレビで宇宙の番組を見て、自分より大きな存在について考えたり・・・そういう時間が心地よかったんですよね。

メモ帳のドローイングより

―すでに小さな哲学者だったんだね。今年になって役者活動を本格始動することを決めたのは、写真を撮ることとどう繋がるだろう?


演技と写真は別のものだと思ってたけど、繋がってますね。演技をやりたいと思った最初のきっかけは小学校の演劇クラブに入ったこと。入部前に先輩の舞台を観て、演技を通して他人になったら一旦自分でいなきゃいけないって制限から解き放たれると思ったんです。中学時代は地元の小さな演劇団体に所属していたんですけど、今でも時々思い出すくらい人生で一番楽しくて溌剌とした時期だったと思います。

メモ帳のドローイングより

多分ひとりで写真を撮るのは、小さい時に自分や世界について考えてたのと同じことなのかなって。淡々と自分のペースで撮るのは楽しいけど、中に中に入って辛くなってしまうこともある。でも演技は私一人でできることではなくて、いろんな人と関わって初めて作品になるものだから、そういう意味でも改めて演技をしたくなって事務所にも所属しはじめました。

―写真は自分の内側を探求してく行為で、逆に演技は外側に向かってる。人と積極的に関わろうとしてる今の永遠ちゃんのムードやタイミングにも一致しているし、きっと両方あってバランスが取れるんだね。

そうですね・・・色々やっててもその人自身の軸が変わらなければ、何を表現しても道のりは一緒な気がします。

―定まってないものに魅力を感じると話す永遠ちゃん自身にも、定まってない魅力がある。人と接することに臆病だけど近づきたい気持ちもある揺らぎが全ての表現に繋がっている。最近はさらに一歩踏み出せるようになったところだよね。
永遠ちゃんは、自分の中にある変わり続ける波を知っているし、その時々でどんな表現手段が自分に必要か直感的に分かる人。これからどうなってくか、本当に楽しみです。

 

永遠(とわ)

1999年生まれ、大阪府出身。10代半ばから写真を撮り始める。主な展示にグループ展「hill」@MIDORI.soギャラリー(2017)、Towa × ST, CAT photo exhibition(2017)など。2020年から役者として活動開始。

Instagram: @towaforever1
Website: https://www.quint-inc.com/artists/towa/

 
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