内田涼:存在を確かめるリアリティ

 

Interview by Ayae Takise
Image courtesy of the artist (*=by Shinichiro Ishihara / others by Ryo Uchida unless credited)


「身体の内側と外側のつながり、そこから見える景色」。Seen Scenesのステートメントとして掲げているこの言葉に、内田涼ほど重なるアーティストはいないと思う。だから今回内田との対話をまとめるに当たって、個人の視点をこれまでと異なる濃度で被せてみることを試みた。8年来の細く長い縁のあいだに発表されてきた作品、そして本人の人柄にも触れてきたが、作品の背景にある詳細を聞くのは初めてだ。内田の身体感覚が自分個人のそれとかなり近しいものがあるから、第三者として読み解き言語化できる深度があると思った。無論Seen Scenesは個人性の強い場だが、本記事ではさらにその偏りを彼女の作品性を知る手立てとしたい。

《8未満、4つの影 / below eight, four shadows》910x910mm / acrylic on canvas /2020

《8未満、4つの影 / below eight, four shadows》910x910mm / acrylic on canvas /2020

自我と折り合いをつける抽象絵画

―涼さん(内田)との出会いは、私の大学卒業制作のお手伝いを学内募集かけた時につながったのがきっかけだったよね。写真撮影された生身のダンサーの身体をPhotoshopで一定のルールに従ってなぞってもらって、その単純作業からでさえ画力、洞察力の高さが伺えてびっくりしたのを覚えてる。あとで涼さんが多浪して大学に入学していたことがわかって納得したのと同時に、抽象絵画を始めた経緯も気になりました

多浪している間に、アカデミックなデッサン表現が身体に染み付いてしまって、何かを描けと言われればある程度それっぽく描けてしまうことをつまらなく思うようになって。大学入学後はそこから自由になったから、ようやく、今まで当たり前のようにやっていた「見て描く」という行為自体を疑いはじめて、絵画表現から離れてミクストメディアや写真表現に挑戦したこともあった。

その流れで2012年に、打ち上げ花火の動画のネガポジを反転させた短い映像作品を作りました。動機になったのは、2011年に震災が起きた時、魂を鎮める意味も持つ花火大会が全国的に自粛されたことに対する悲しさ、『とりあえず浮かれちゃいけない=自粛』という構図や同調圧力のようなものにずっと違和感を感じていたことや、震災以降、花火を見る目が180度変わってしまったこととか。これまでなかなか手を出せなかった映像というメディアを使って、作家としてメッセージ性を強く意識した作品にしたかった。

《or / 0311 / 花火》 / short film (60 seconds) / 2012

《or / 0311 / 花火》 / short film (60 seconds) / 2012

でも原発について国内外で報道される情報と現実の乖離があること自体怖くて、東北に行かずじまいのまま作ったのね。結果的に課題評価の副賞として商品券をもらったんだけど、映像表現への好奇心、表面的な実感に頼り切って作った作品が、一定の評価を得て紙幣価値に変わってしまったことへの罪悪感を強く感じた。震災という出来事をいとも簡単に「素材」にしてしまったように感じて、もう一度自分の制作方法や使用メディアのこと、自分が何を表現してそれをどこまで抱え込むことができるのかを、ちゃんと考えて出直そうと覚悟したのを覚えている。それをきっかけに、ようやく遠ざかっていた絵をまた描き始めるようになりました。

武蔵野美術大学造形学部油絵学科 卒業制作 《タイム》より


―それで4年生になってから抽象絵画表現に専念し始めたと。抽象絵画にもいくつか方向性があるけど、具体的なモチーフを抽象化する方向性を取らなかった理由は?

「現実を見る→脳内で情報処理・変換する→身体を通って再び外部に出す」という感覚で制作することが気持ち悪かったから。自分のことを信じていたら「自分という素晴らしい組織を通して出てきたものは素晴らしい!」ってなるんだろうけど・・・

―そんなそんな。

だから自我のフィルターを手放して描く純粋な抽象絵画を目指した。でもいくら偶然性に委ねて行為から要素を広げようとしても「この形のこの色をここに」と判断する自我を取り去ることはできないし、追求したところで無我なんてない(笑)卒業制作は7枚の連作として発表したんだけど、それと折り合いをつける方法をやっと見つけたのが最後に着手した2枚。

―折り合いをつけるというのは、どんなふうに?

当時は自分の感覚や身体について言語化できていなくて、気持ち悪さの所在がはっきりしていなかったんだけど、今になって言えるのは、「折り合いをつけた」のはコントロールできない部分とどう付き合うかということ。繰り返し絵を描いていく中で、自我が滲み出てきてしまうのは辛くも面白くもあるという境地にたどり着いて、自分の持つ他者性と自我が波になって交互に押し寄せてくる状態を楽しめるようになった。そのやりとりを意識的に画面に定着させるようになっていったのかもしれない。

内田が「折り合いをつける方法を見つけた」と話す2作品。 武蔵野美術大学造形学部油絵学科 卒業制作 《タイム》より

内田が「折り合いをつける方法を見つけた」と話す2作品。
武蔵野美術大学造形学部油絵学科 卒業制作 《タイム》より

違和感のほうを信じてる


―涼さんの言う「他者性」と「自我」についてもう詳しく聞きたい。

私は、そもそも「自分の身体はうまくコントロールできないものだ」という感覚が昔から強くある。身体はどこかから借りてきた重い容れ物で、その中にいわゆる「自分」と呼べるような存在と、「他者」のようなよくわからないものが同居している感じが常につきまとっている。借り物の身体と、得体の知れない同居人の一挙手一投足を「他者性」として自覚することで、それらと一緒に作品をつくってきた感じ。

筆を動かす時は特に、手や指先が本当に他人のものというか、全く別の生物に見えることがよくあります。脳が認識して考える前に、手が動いてしまう。私の手が私よりも先に、ここでどう動くべきかを知っているように振る舞う時が多々ある。

手だけでなく身体全体に言えることだけど、自分の中の「他者性」に自覚的になってからはより一層、そういうズレのようなものを感じる瞬間が増えました。これは「自分」を信じていないというところにも繋がるんだけど。


―具体的に何を信じていない?

特に視覚的な情報処理に関しては偏りがあると思って。例えばデッサンをする時、静物モチーフや(正確性が求められる)工業製品もそれなりに描ける。でも石膏像、人体モデル、自画像とか「顔」が出てきた途端に全然ダメ。全体の形を取ることはできるのに、顔だけ絶対何かがおかしくて…顔として見てしまった途端に脳が違う処理をし始めると思うほど、何枚描いても似ないの。技術不足というより先天的な欠陥なのではって思い詰めたことがある。

―それ、私も一緒かも…

あと地図を読むのが全然ダメで生活に支障が出るレベル。グーグルマップは写真モードに直しても、「ここで左折して、直進して」って指示情報を出しても理解できない。手元に表示されている2次元情報と現実の3次元情報を一致させるために、まず3次元から2次元へ変換処理するんだけど、情報が多すぎて時間がかかるし、多分その処理の仕方自体がおかしい。


―私も地図は苦手で、見ながら移動しても迷うことがあるくらいだけど、涼さんはもっとすごい。じゃあ今日ここ(内田が初めて訪れた取材場所)にはどうやって来た?

最近わかったのが、地図をあんまり見ないほうがいいんだと。今日も、最初に一度グーグルマップで場所を確認して、情報を整理してから出発した。地図を見ながら来ていたらもっと到着が遅れていたと思う。地図を見ながら進むとやっぱりヘンな方向に行っちゃう・・・

もしかすると、世界を平面的に捉えすぎているのが混乱を招く一つの要因かもしれない。目の前にある凹凸や奥行きへの反応が薄い気がする。色や形に敏感なのも厄介で、脳がいちいちそれに反応しているように思う。欠けているのか過剰なのか歪んでいるのか。日常生活では特に、借り物の身体をうまく使いこなせてないように感じる。きっとみんな誰しもそういうのはあるんだろうなと思うけど。

《square》 727x727mm / acrylic on canvas / 2019

―身体が直面してる現実と受け取った情報のズレに自覚的なんだね。でも、地図を見ずに移動して一発で辿り着ける?

もちろん間違うこともあるんだけど、違和感を判断基準に消去法で軌道修正していくと自分が手元の地図に合ってくる。これは絵を描く時も同じで、正解は見えてないのに、今画面にあるものが「なんか違う」ってことだけは分かるから、途中で手を止めたり、キャンバスの向きをどんどん変えながら制作を進める。違和感は後から効いてくるし、自分を前に進めてくれるから信じてる。違和感のほうを信じてるなんて変だね。でもいつも頼りになるから、それをたどっていきたいと思う。

デジタルと自分の性質のつながり


―身体的な直感が優位なのに、これは涼さんの絵が定期的に展示販売されているギャラリー「アート/空家 二人(NITO)」主宰の三木さんも言ってたけど、結果的にデジタルのメタファーとも取れるのが面白い。キャンバス上にあらわれた要素をなぞって同じ支持体の別の場所、あるいは別の支持体にペーストしたり、滲みと塗りつぶしのレイヤーを重ねる行為がまさにPhotoshopの操作概念を倣っているなと。

PhotoshopやIllustratorの操作感はかなり制作スタイルに影響を与えてる。彩恵ちゃんの卒制のお手伝いで操作方法を教えてもらったのをきっかけに、在学中にソフトを使ってたくさん自主制作をしていたし、卒業後に制作会社にいったん就職した時もかなり使い倒していた。

あの時が初めてだったんだ!でも私、教えたことは記憶にない(笑)

そうなんだよ。バッチリ使いこなせるわけじゃないんだけど、デジタル空間上でペラペラなレイヤーを重ねて組み立てる操作感覚が、自分がもともと持ってる平面的な空間認識の仕方と性質が似通うところがある。絵を描く時も、透視図法や遠近法を使わずに絵画空間を作ろうとしてるからとても相性がいい。

《タイム#10》 727x727mm / acrylic on canvas / 2018

―ルネサンス期にイタリアで遠近法が発明されたことで、人々の空間認識の方法が変化して当時のイタリア語の言語構造にまで変化があらわれたという話があるんだけど。もしかすると原初的な空間認識感覚が涼さんにも備わっていて、現代で当然とされてる手法に矯正しきれなかったものがズレとして浮かび上がっているのかもしれない。一方で作品には一切デジタル手段を持ち込まない。

デジタルな手法はあくまで自分が積み重ねてきた経験や感覚のひとつとしてあるもの。パソコン上の操作は手作業よりもすごく便利で、時間や手数をかけなくても高い精度ですぐ重ねたりずらしたり、間違えても一瞬で後戻りができるじゃない。便利だから、思いのままにできる全能感を得たことで知った変な快楽が心地いいんだけど、物事と物事の間の工程を飛ばして成果を得るような仕組みの物足りなさ、この違和感は、自分にとってとても重要だと思ってる。

平面がレイヤー的に重なり合うデジタル空間に居心地の良さを感じると同時に、ボタン一つで景色が変わるような不連続な構造には反発している自分がいるから、キャンバス上の一つ一つのまどろっこしい工程を経た時に、何かを取り戻したような気持ちになる。


―快楽を求めて便利な方に行った結果不足するものを、快楽を求める動機になったところで補完する、一周まわってくる感じが痛快。取り戻すものというと?

一番は物事の連続性かなと思います。何かを動かしたり、取り消したりすることが簡単にはできないということを愛おしく思うというか、目の前の現実が自分の手の届くところに戻ってきた気持ちになるというか。カッターの刃がうまく曲がらないとか、絵具が滲んでしまうこととか、パソコン上では起こり得ないどうしようも無いズレも大事にしています。

《 live trace #1-4》127x178mm / pray , acrylic on paper /2020

「過去に描いた絵の「地」の部分を”トレース”して、筆のストロークに変換した作品。ここに確かにあるのに無いことになっている「背景」「余白」と呼ばれる部分に焦点を当てたい、「図と地」を読み替えることで空間に介入したいという根本的な欲求を体現した作品かもしれない」(内田)

《someone's#1〜2》91x72.7mm / spray on wood chips  / 2019秋山実生・内田涼二人展「デポルターレ」(つつじヶ丘アトリエ / 2020年)で発表した立体作品。「ホームセンターの端材詰め放題コーナーで入手した、誰かが何かを切り抜いた時に余った形を構成した立体作品。見ず知らずのリアルな他者とのささやかな共同制作を試みた。」(内田)

《someone's#1〜2》91x72.7mm / spray on wood chips  / 2019

秋山実生・内田涼二人展「デポルターレ」(つつじヶ丘アトリエ / 2020年)で発表した立体作品。「ホームセンターの端材詰め放題コーナーで入手した、誰かが何かを切り抜いた時に余った形を構成した立体作品。見ず知らずのリアルな他者とのささやかな共同制作を試みた。」(内田)

インターネットと人間は似ている

―大学の卒業制作も、所属学科の長沢秀之教授のブログで「デジタル時代の芸術の一つの可能性をさぐる実験でもある」と評されてました。

長沢さんに書いていただいた批評文は今でもたまに読み返して、いろいろ考えを巡らせています。「デジタル」とは別で、「インターネット」というキーワードを投げかけられることがたまにあるけど、そこはいまいち消化できてないです。

インターネットについて考えれば考えるほど、人間を考えることになるじゃない?私たちが生物として身体の中に持ってる世界と接するためのシステムが、たまたまインターネットと似ているという話かな。

―確かに人間の体内で細胞や神経伝達がどう関係を築いて情報を受発信するか、自然界で生物がどう共生するかといったことまで、万物はインターネットに喩えられる。とすると、インターネットの概念を拝借して涼さんのものごとの知覚の仕方、打ち返す身体性についても説明がつく気がしてます。

制作プロセスをインターネットで起きることに喩えると、現実にあらわれている視覚要素をインターフェイスとしてそこに作用を起こしていくのと同じ。インターネットで検索して出てくる情報も絶対ではなくて、表示する機械のOSや画面サイズ、検索当時にはたらいたアルゴリズム次第で左右されるもの。不確実で実体がない中で何を確実とするか、というのは涼ちゃんが物事を知覚する際の違和感の話にも通じるかなと。

なるほど。

《braid#1〜4》257×364mm / acrylic on paper / 2020

―逆に肉体は実存するものだけど、不確実なイメージとして知覚されるもの。身体をどう認識するかはどこにフォーカスを当てるか次第。NITOの三木さんが書いた紹介文にあった「目が痛む時にどの位置が最も痛むか」という文章を読んで思い出したのが、目が痛いと思っても実は不具合の根は首や頭にあって、神経が通っている場所の関係でたまたま目の症状と錯覚してしまうことがあるって話。肩こりの原因が実は腰だって場合もある。

私も昔それと似たことを体験して衝撃を受けたことがある。数年前、東洋医学に詳しい友達に肩が痛いと話したら、肘の少し下をマッサージするといいと言われて、そこをほぐしたら本当に肩が治った。全部繋がってるんだよね。


―因果関係をどう作るかは、肉体とは別の「自分」が勝手に決めていて、肉体とその外側に起きている現実はただそこにあるだけ。そこにどんな名前や定義をつけるかで、ズレてる/一致してると認識してるだけと言うか。

例えるなら、目覚めたあとに感情が残っている夢を見ているような。そういう夢を見ると、自分が認識してることは実際に自分が体験したことじゃないかもしれないって思うことがある。

《Flakes》410×410mm / acrylic on canvas / 2021 *

順応を繰り返す借りものの身体

―現実と認識の因果関係を結ぶこともそうだけど、心身含めて過去から現在まで「一貫した自分だ」と思えるのも後付けに過ぎない。実際に一貫した存在でいることの方が難しい、というのは生物全般に言えることみたいよ。

さっき「借り物の身体」という話をしたけれど、それが社会的、物理的な状況の変化に従って勝手に変わってしまったり、勝手に順応してしまう感覚もある。たとえば1週間前に会った人が違っていたら今の自分より少し違っていたと思うし、今となりに誰がいるかでも変わってしまう。全部巡り合わせでしかない。人がいて、時間の流れがあって、私はそこにただ漂ってるすごく不安定な存在。偶然会った人を通して輪郭ができてまた崩れて、を繰り返してるだけな気がする。

すごく言い方が悪いと思うんだけど、身体はここにあるのに、なんかふわふわしてて特定の自分というものが存在している実感があまりない。というか、突然消えて失くなることになってもそれを阻止する手段が見当たらない、執着がないというかなんというか…うまく言えないけど。

―仏教的観念で言うところの流転に近い気がする。

だからわざわざ絵を描いて、自分のようなそうでないような、よくわからないものが確かにここにあるということを確かめようとしているのかもしれない。あと、絵を描き出す前にまず一生懸命生活を組み立て直さないといけなくて。

―生活を組み立て直す?

たとえば滅多に行かない実家から自分の家に帰ってくると、全然違う世界にやってきた気がするの。自分の部屋が違う場所に思えるから、掃除して整えて、要らないものを仕分けて、変わってしまった自分の身体に合うように全部組み立て直してる感じ。アトリエに行っても同じで、横の畑で過ごしたりして何時間もかけて身体を馴らさないと描き出せない。どこか新しい場所、久しぶりな場所に行くといつもそう。かと言ってずっと同じ場所にいても描けないからやっぱり、組み立ての繰り返し。毎回違うレンズで世界にピントを合わせている感覚。

《Tampilan harian#1〜84》148×210mm / acrylic on paper / 2019

2019年夏、オルタナティブスペースASP(インドネシア・ジョグジャカルタ)にて滞在製作および展示。渡航の際持参した限られた画材で展開されたドローイングには、現地で目にした街や食事の色彩が無意識に反映されている。

《menjemput Zamrud・menjemput Merah》305×200mm / acrylic on polyester fabric / 2019 撮影:横内賢太郎 (ASP)

《menjemput Zamrud・menjemput Merah》305×200mm / acrylic on polyester fabric / 2019
撮影:横内賢太郎 (ASP)

―それを知ると「状況の変化に順応する」ことの重みもまるきり変わってくるね。

絵を描くためにその時その時の身体に合った環境を整えているのか、環境を整える口実として絵があるのか、そのあたりは自分でもよくわかっていません。でも制作をやめるという選択肢は今のところないので、定点観測せざるを得ない。こういう生活を続けてきて、前より「描く」とは何か、「みる」とは何かということを、面倒くさがらずに考え続けられるようになった気がする。絵が生活の中に浸透したことで、簡単に答えが出ない問いをいつもそばに置いておけるようになった。

口実がないと次に進まない

―容れ物としての身体と世界を往来して、相互拡張していると言える。絵画と身体それぞれに出現した現象・錯覚がフィードバックしあって、内田涼という人間も作品も育っていく。そういう意味では、飛躍は承知で、身体表現とも言えるなと。以前からステートメントの文章がダンスと親和性のある内容だと感じていたし、最近ダンサーとのコラボレーションが多かったのも偶然じゃない気がする。

ダンスはとても遠い世界のことだと思ってたけど、自分のやっていることを通してそうやって近いと言ってもらえる、シンパシーを感じてくれる人たちがいるのは嬉しい。

―直近だとタップダンサー米澤一平くんとのセッションが記憶に新しい。これはテーマの言葉「口実、通過、階調」がすごくよかった。

米澤一平 × 内田涼『口実、通過、階調』(2020年11月/喫茶茶会記) *

光と音を素材に互いのアクションに反応し応答する形で展開する、ゆるやかな三部構成の即興パフォーマンス。完全遮光になる会場の性質も利用し、光源を内包する玩具を用いたライブドローイングを行う場面も。

米澤くんとセッションのテーマや内容を決める時、自分がいつもやってることを3つの言葉で表そうと思って。「口実」はいつもついてまわるもので、色んなものごとに言える。自分の制作活動も、ある意味では口実だし。そのあとに続く言葉は「つ」から始まらなきゃいけない…ってわけでもないんだけど(笑)自分ひとりから何かを出すというのがすごく嫌なの。だから「口実」がないと次の言葉が出てこない。

―自分の意思決定を促す枠組みが必要だと。

そうそう。「通過」というのは、何かを描いたり解釈するということは、身体を通り抜けてくだけ、その程度のものだって感覚から。「階調」は、私がいつも描くグラデーション、色を扱う際のこだわりから。それぞれに短い文章をつけてプログラムとして配ったけど、まあ物は言いようだし、共同制作の難しさもあって、セッションで実際に起きた出来事の解釈はみる人に任せようと少し開き直ってやったところもありました。

―実際に観て、この三片の言葉も短文も、繰り広げられた出来事にそのまま繋がってると思った。例えば「口実」の場面、短文には「円の欠如と充満」と書かれていて、最初は床にばらまかれた小さなフープの内側に足を踏み入れるというルールのもと動いてた米澤くんが、どんどん円の配置も米澤くんの動きも混沌としていって、最後は円が溜まってそこに米澤くんが内なのか外なのか分からないところに踏み入れてくっていう状態に繋がってた。

普段絵を描く時の話になるんだけど、コピー/ペーストの過程をふむ時に考えてるのは、ペーストした時点で違う個体になるということ。コピーする時はなぞり方がその時々で違って、確実にミリ単位でズレてる。コピーすることで「違う」ってことが認識できるから、その微妙なズレが大事で。

形が作られたところの内側を取るのか、外側を取るのか。囲まれたものの中が満たされているのか否か。そういう認識をきっかけに絵を構築してることが多いから、観客に伝わらなくてもやりたいと思った。だからそう捉えてくれた人がいると、この実験をやってよかったなあ。

米澤一平 × 内田涼『口実、通過、階調』「口実」の場面より

持って生まれたものと向き合う

―この少し前に実施した「見て呼ぶ」ワークショップも、対象をどう認識してあらわすかという実験で、ここにもダンサーが関わっていました。

振付家/ダンサーの小山柚香、ボーカリスト/アーティストの田上碧と私で組んだ「直ちに嗚呼(ただちにああ)」というプロジェクトの一環で、表現手段が異なる3人がリサーチの場を共有するというもので、普段田上が自分の活動として行なっている方法をみんなで実践しました。私が拠点にしているアトリエの脇道を、各人動き回りながら見えたものをその場で言葉にして呼んでみるというもの。最中は必死で、自分の発語を全然自覚してなかったんだけど、あとから音声記録を聞き返したら、私は色ばかり口にしてた。

ワークショップ「見て呼ぶ」より

―私も実際に記録を聞いてみて、涼さんは色彩に関する言葉の量が圧倒的に多かった。単語を並べていく発語の仕方も特徴だと思った。対する小山さんと田上さんにはもっと文章構造があって、電線や植物、車といった対象も擬人化すると言うのかな、「ネズミよけが花を見てる」「雨に濡れなくて済んだ道」「泥棒が来た時音がするための砂利」とか。小山さんは言葉を聞いただけで実際の空間配置関係が分かる描写力で、さすがダンサーだなと。それぞれの身体感覚を投影するような言葉選びが面白かった。

みんな、自分がこういう風に生まれてきたって事実と向き合って、どうにかして折り合いをつけなきゃいけないってことを表現している人たち。このリサーチは今後も不定期に継続していく予定です。

―「呼ぶ」様子は即興パフォーマンスのようだなと。即興って結局オーソドックスな基礎が成ってないと「本当の即興」にはならないと思う。

分かる。でも何を基礎とするかだよね。どうしても積み重ねてきちゃったものでしょ?昨日何をしたかってことまでも即興をする上では基盤というか、一つのとっかかりになってしまう。即興が果たして即興なのかっていう変な難しさがある。私の場合、自分の身体の中に自分も知らないスコア(楽譜)があって、すごく些細なこと含めて絵に出てきてしまうのを「即興」と呼んでるだけかもしれない。偶然と必然の曖昧なグラデーションの中にいると思ってる。

《踊り子、缶切り、オリーブ/Dancer, Opener, Olive》1620x1303mm / acrylic on canvas / 2020

―自分の知覚と身体性に自覚的になって、影響として認識したものを自分の外に返して次につないでいく、経験や思考含めて順応を積み重ねた結果今何するか、だね。偶然ですら必然かもしれないし。

経験や環境、周りからの影響があって自分と呼べるような何かが存在して、そこから生まれたものを表現している人は私以外にもいるし、「身近な日常」をいかに描写するかということに取り組んでいる作家は今とても多いと思う。でも私がやろうとしていることはさらにささやかで根本的で、厄介な部分をくり抜いていく作業な気がする。自分が持って生まれたものに向き合うことでしか作れないものがある。その経験や感覚自体は他人と共有できないけれど、作品を見せ、見られるというかたちで共有できればいいと思ってます。

 

内田涼 / 美術作家

1989年静岡県生まれ。2015年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。現在は東京の「つつじヶ丘アトリエ」を拠点に活動。即興的な身体の動きや無意識の営み(反射的に手が動いてしまうこと、目が欲していること、滲み出てきてしまう潜在意識など)の不確定要素がつくり出す現象を排除せず、受け入れ協働しながら制作を行う。2020年、シェル美術賞入選。2021年、はるひ絵画トリエンナーレ審査員賞(鷲田めるろ選)受賞。

Website: https://ryouchida.work/
News: 「つつじヶ丘アトリエ」Twitter https://twitter.com/tsutsuzigaokano

 
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