水面下:声と身体のあわい

 

Interview by Ayae Takise
Image courtesy of the artists

4月30日に豊洲シビックセンターホールにて上演される「ジョン・ケージの四季」。 古楽のバックグラウンドを持ちながら、アメリカの実験音楽も積極的に演奏するピアニスト横山博の企画として立ち上がった本公演で、ダンサー/シンガーソングライターのOsono、ダンサーの青沼沙季による「からだで音楽をつくるからだバンド」水面下の新作《A - Un》初演がお披露目となる。

なぜジョン・ケージの名を冠した公演でこのような試みが行われるのか?クリエーションの真っ只中にいる水面下の二人が探究する「声と身体のあわい」について対話しました。


音の出処と表象としての身体

ー今回お二人はピアニストの横山博さんによる企画公演「ジョン・ケージの四季」に、ユニット「水面下として出演し、初演新作《A - Un》を上演されます。ユニット活動は横山さんから公演参加のお声がけがあるより前に始まったそうですね。

Osono 音楽ライブ中に踊ったり、MVの中で自分が踊ることもあったけど、これまでは歌う時と踊る時は自分の中で別物という意識でやってました。でも声と身体を一体のメディアとして自然と使えるようになったら、自分のスタイルをより追求できるようになるんじゃないかと。まずは誰かと一緒にリサーチを進めようと青沼さんに声をかけました。

青沼沙季(以下 青沼) Osonoさんは中高ダンス部と大学(日本女子体育大学舞踊学専攻)の先輩でもあったので共有できる言語があると思って。私も10代の頃からボイストレーニングのレッスンを受けていて、ダンス作品を創作するようになってからも歌う場面を設けるなどしてきました。ちょうど2年ほど前からはオペラ歌唱も習っていて、自分の中で「声の表現」をより追求したいと考えていたので、Osonoさんと活動を始めました。

ー「声と身体」の関係を探るうえで参照したことはありますか。


Osono 声を出しながらムーブメントリサーチをするワークショップには今も時々出ています。たとえばダンサーの上村なおかさんと三浦宏之さんのワークショップに参加したときは、「このひらがなの音はこの身体の動き」と発声を身体の動きであらわすアプローチをしていたり、「この文字の形は身体でこう表す」と字形を身体で造形することをしていました。そのワークショップの内容が自分の中で馴染みつつあり、そこから発展させてみたりもしました。

青沼 2020〜2022年に舞踏家の伊藤キムさんが主宰するフィジカルシアターカンパニーGEROに所属していて、その時に経験したアプローチを水面下のクリエーションプロセスにも生かしています。今Osonoさんが話したような声と身体同士のアフレコだったり、意味のない発声をだんだんと意味のある言葉に変化させたり、言語と声音を行ったり来たりするようなことはやっていました。

こういったアプローチはコンテンポラリーダンスの世界に即して言えば決して真新しいというわけではないですが、違いを挙げるとすれば、GEROは「演劇でも舞踊でも音楽でもないもの」を目指していたのに対して、水面下は「からだで音楽をつくるからだバンド」と言い切ってるところかな。

 
 

―クリエーションリサーチの映像をいくつか拝見しましたが、確かに水面下の場合は言語や字形をモチーフとして扱うというよりは「音」に焦点を当てているように感じました。二人でリサーチを進めるうえでどのようなプロセスを踏んでいるのでしょうか。

Osono 去年の夏頃から週に一回稽古していく中で、3つのパターンが浮かび上がりました。①身体に対して声(音)をアフレコする②声(音)に対して身体をアフレコする③既存のメロディやリズムに合わせて身体で遊ぶ。この3つをグラデーションのように行ったり来たりして、料理をしながら実験してきました。

―なるほど。「音」に焦点を当てていると言っても、2種類のアプローチが見られると思っていて。ひとつは「音の出処」として楽器のように身体を扱うもの。もうひとつは身体の動きが音を表象するような、擬音語的な発想に基づくと言ったらいいんでしょうか。これを行ったり来たりしてますね。

Osono 《A - Un》はこの実験をふまえて出てきた行為や音で構成していて、声と身体、どちらが主体なのか境界線があいまいになるような作品になっています。本番1ヶ月前に、作品を4つの “action(アクション)” に区切ることに決めました。どのアクションでも声と身体、そこから出る音が主になります。ただ、行為に重きをおく(現代美術文脈での)パフォーマンスアート的なアプローチと、肉体から出てきた音や動きの表現に重きをおくアプローチの2種類があって、前者と後者では演者としてのスタンスが全然違うので、区切って初めて次の展開に行くようにしてます。

これは「音楽の楽章のように区切る」という音楽家の横山さんならではのアイデアがもとになっているんですが、私は《A - Un》を「ダンス作品」というのは確かに違うと感じていて。

青沼 事前告知では「ダンスをする」と書いてますが、実際は稽古を重ねるほどそういう存在の仕方がしっくり来なくなっていて、それよりも「音楽を演奏する」というスタンスでやってます。身体を叩いたり鳴らしたりボディパーカッション的なこともやってるのですが「私なら内臓が鳴る」と思って、それも作品に取り入れてます。

―意図的に鳴らせるってことですか?!

青沼 歌うときに腹式呼吸をしようとすると、お腹が空いたり緊張してるからなのか鳴りやすいってことに気づいたんですよね。一体どこの音なのか具体的にはわからないんですけど、たぶん左の脇腹か胃のあたり。普通だと聞き取れないような身体の内側の音や小さなため息もお客さんに聞こえるように、上演中はピンマイクをつけることにしています。

―そう考えると、声って内側と外側のあわいにあるメディアな気がします。音として顕在化して認識するものではあるけれど、他者からは見えない身体の内側の状態で変化するものでもありますよね。

 

“居方”のグラデーション

―先ほど青沼さんから「存在の仕方」という言葉が出ましたが、それについて詳しく聞きたいです。

青沼 各アクションの合間に一瞬素に戻る「オフ」の時間ができるんですけど、そこで色々考えたことがあって。人前に出る本番で「オフの居方」を求められると、観せてはいけないものを観せてしまってるような気持ちになって戸惑ってしまうんですよ。

GEROにいた時もこういったトピックは通ってきていて、ダンスや演劇でこういう話はやはりよくあるとは思うのですが。そういうこととはまた違う意味で、Osonoさんは私からすると舞台上でオフになっても、それが観られても大丈夫なように出来上がってるというか。ずっと自然体なんですよね。

Osono そうらしいです。私は最近5年くらい、お客さんと距離が近い小さな空間でのライブ活動を続けてきたので、いわゆる舞台的じゃない「居方」に慣れてしまってます。次の曲に進むときにマイクをちょっとセッティングしたり、そういう瞬間って確かにお客さんに観られてるんだけど、「観られるスイッチ」は自分の中で入ってない。一方で青沼さんは舞台に立つ時のスイッチの意識が私よりもあるから、居方をどうしようと困っていたんですよね。

―私もOsonoさんが「観られる」状況に置かれた時の存在のしかたはとてもユニークだと思っていて、なかなか普通にできることではないなと思いながらライブなど拝見してます。

Osono 確かに、いわゆる舞台に立ったり人に観られる状況でと緊張感はあって当たり前だと思うし、そういう青沼さんだから「今どのへんの居方にいる?」と戸惑うのはよくわかります。私は多分、ライブの場で「今日はここに立とう」「今日はこの辺でやろう」と試したり失敗を繰り返してきて今に至るのかもしれない。ダンサーとして劇場空間でばかりで活動してたら今こうなってないだろうし、「ザ・ダンサー」ができないからこうなったんだろうなと。

―日常の身体と舞台の身体の切り替え方であったり、グラデーションの持っていき方というのは確かに、お客さんと地続きの場所で表現を共有するライブ空間と劇場空間では積み重ねるものが変わりますね。

Osono 今回の公演の制作スタッフの方からも、インストラクション作品を実演しているような感覚で水面下の新作も向き合った方が公演趣旨としてもいいのでは、という意見をいただいていて。おそらくこの作品で一番の課題だけれど、真剣に模索した先に未来があるんじゃないかと思ってます。

青沼 去年の夏に稽古をし始めた時はもっと戸惑っていたんですけど、今は前よりだんだん整理されてきてはいます。最初別々で勇気を振り絞って出してた声と身体が、今はぽんっと自然に一緒に出てくる。嘘のない状態、「perform」にならない身体は本番まで模索し続けるんだと思います。

 

―水面下の新作は、この公演で上演される他の作品とはあくまで関係はなく独立した作品ではあります。ただ、個人的にはケージや小杉が実践したことを拝借してステートすることも可能だと思っていて(*編集注)。

例えば内臓の音を聞かせること。ジョンケージは1950年代初頭、無響室に入った際に自分の身体の内側から音が鳴ることを死生観に繋げて思索したことがあったそうなんですね。これが《4分33秒》はじめのちの様々な作品に影響しているんだそうです。これを知っていて内臓の音を聞かせるアクションをすることにしたんですか?

編集注:公演プログラムにはケージ=カニングハムの後年の作品性が確立される以前の実験的な初期作品《四季》《ある風景の中で》のほか、ケージの代表作《4分33秒》、小杉武久の数多あるアプローチの中でもインストラクション作品《ANIMA 7》《MICRO I》などが上演される。

青沼 知らなかったです。

―偶然にしては、やはり繋がるんですよね。小杉武久の《ANIMA 7》も日常の動作を任意の時間に引き延ばして実行するというもの。日常的に身体から発せられる音や行為を増幅させたり強調して提示するアプローチがここでつながります。それを無意識にやっているのは面白いなと思います。 

誰でもどのようにでも参加できる芸術

―お二人の話を伺っていて、いくつかの「あわいの往来」が浮かび上がっています。まず声(音)と身体、その中でも他者に顕在化されるものとそうでないもの、そして日常と舞台の身体、といったところでしょうか。

青沼 そうですね。その中でも特に音を身体に対してアテレコするアプローチというのは、老若男女、専門的なダンスや音楽の経験有無を問わず日常の経験をとおして共感できるものがある気がします。Osonoさんは今後、水面下の考え方や方法をいろんな人に開放していきたいという話をしていて、それを最初に聞いたあとに稽古をしたら腑に落ちたんです。

Osono 水面下は今回のクリエーションプロセスで活動コンセプトが定まってきました。今後も私たち二人がコアメンバーだけど誰が入ったり抜けたりしてもいい、必要な人がその時々で集まるコミュニティみたいな。瀧瀬さんもぜひどうぞ(笑)具体的な言語化やメソッド化はまだですが、一定の方法や考え方は広く社会に開放できそうだし、「今度はあなたのやり方でやってみましょう」と広がる余地もあると思います。とにかくいろんな人が参加できるのが一番健康的だよなと。

―ここでまた他の上演作品ラインアップと繋げて話をしますが、実はケージの《4分33秒》には第2番として《0分00秒》というインストラクション作品があって、冒頭には「Solo to be performed in any way by anyone(誰でもどのようにでも演じられるソロ)」と明記されているんですよね。これは水面下が提示する声と身体の実践・共有の方法にも通じていると思います。「誰でもどのようにでも参加できる芸術」を実践する一つのプラットフォームを考える上で、ケージが60年前に残したこの記述はひとつのヒントになる気がします。


Osono 個人的に水はイメージとして好きで、ユニットの名前をつけるときも、世の水面下で発表の前提もなく純粋に心身の開放を楽しんで、みんな泳ぐ、みたいなイメージがありました。目的に向かうことにフォーカスするより、そっちの方が新しいものができる期待感がまさってワクワクします。

Osono, 横山博, 青沼沙季


編集後記

本公演の企画者である横山さんはチェンバロなど古楽のバックグラウンドもお持ちでありながら、ジョン・ケージやモートン・フェルドマンといったアメリカ実験音楽にも積極的に取り組み、時に鍵盤以外も「演奏」することで国内外で評価を得ています。
たとえば今回の舞台公演でも取り上げるケージの《4分33秒》は「休符を演奏する作品」だと横山さんは仰っています。日常の動作を舞台上で行う《0分00秒》などのインストラクション作品も横山さんは「演奏」し、音楽演奏というよりパフォーマンスアートの分野にもまたがるようなことをしてらっしゃる。「インストラクションを真面目に演奏しようとすると、やるべきことは自然と定まってくるから、ケージ作品も小杉作品もあくまで『クラシック音楽』と捉えている」という横山さんは、ひとりのピアニストというよりも非常に稀有なパフォーマーだと感じてしまいます。

通常の音楽公演でも、演奏者と鑑賞者の間で「観る・観られる」は少なからず意識されるものだとは思います。ただ「身体をメディアとする」作品と比べればその意味合いが大きく変わってきます。そういったことを提示する意味でも、横山さんが今回パフォーマンスアート要素の強い作品ラインナップをダンサーのお二人とともに作り上げる本公演は非常に意義があるのでは、と思います。


Osono

「身体は海、背骨はうたう」をコンセプトに歌や踊り、ボディワークなど多岐にわたり活動するアーティスト。 身体の記憶をたどる旅を、音に残している。
13歳から創作ダンスを始める。日本女子体育大学舞踊学専攻を卒業後はピラティスインストラクターとして活動する傍ら、2015年よりOsono名義の活動を開始。ダンスと演奏と語りの自主公演「背骨はうたう」(東京・調布市せんがわ劇場、2019年)主催。音楽アルバム「Osono」(2018年「TAKARA」(2021年)発表。老若男女を対象に身体のワークショップや講座を開催するなど、縦横無尽な活動を展開する。

Spotify / Instagram / X @nerim_adaikon

青沼沙季

ダンサー・振付家・保健体育科非常勤講師。日本女子体育大学舞踊学専攻卒業。ダンスを笠井叡、伊藤キムに師事。ボイストレーニングを今角夏織に師事。最近ではダンス作品中での歌唱パートの担当、オペラの振付出演、あいち2022現代美術展でのパフォーマンスなどダンスという枠を時々飛び越えながら活動中。表現も人生も「嘘のないこと」を大切にしている。2024年6月に初のソロ公演「青の他人とおしゃべり」を東京・天使館にて上演予定。

X @saki_aonuma


「ジョン・ケージの四季:小杉武久。マース・カニングハム、そして、イサム・ノグチが追い求めたもの」公演情報

公演日時:2024年4月30日(火)19:00-20:40 [18:30 open]
会場:豊洲シビックセンターホール(Google Map)東京メトロ有楽町線/新交通ゆりかもめ「豊洲」駅直結

事前/当日券:S席6,000/6,500円、A席4,000/4,500円、B席3,000/3,500円 / 学生券2,000/3.000円

出演者

ピアノ=横山博 / コンテンポラリーダンス=水面下(Osono、青沼沙季)

プログラム

●ジョン・ケージ:《四季》《ある風景の中で》《4分33秒》
●小杉武久:《 INSTRUMENTAL MUSIC 》《 MICRO I 》《 ANIMA 7》
●水面下: 《新作初演》

公演クレジット

音響: 成田章太郎 / 舞台美術: 福田真太郎 / 照明: 植村真 / 撮影: まがたまCINEMA
助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 【東京ライブ・ステージ応援助成】、公益財団法人朝日新聞文化財団
協賛: ファツィオリジャパン株式会社

 
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